ゆいやのーと

日々アウトプット

人が生きていくのに必要な2つの燃料

情熱(Passion)と執念(Obsession)は生きるための燃料である。

これは別にクサい言い回しとかカッコつけてイキった発言だとか、全くそういう話ではなくて。
自分が今まで20年と何年か生きてきて、嫌というほど思い知らされた、
いわばこの世の真理みたいなものだと思っているモノである。

情熱は生きる力である

情熱というのは簡単に言えば物事に対する強い興味である。
情熱なんていう単語を使うと、えらく仰々しく感じてしまうが 要は「あれがやりたい」「こんなものがほしい」「ああなりたい」といったような単純な興味や願望が、次のステップへ昇華されたものというだけで、何も特別な感情や、いわゆる「アツい人」だけが持ってるようなモノではないということを理解する必要がある。
とにかく、自分が生きていく上でプラスに作用していく燃料みたいなものである、と思っておけばよくて、 ガソリンが街のガスステーションで売られているように、極端な話何らかの方法で誰でも手に入れられるものなのだ。
燃料と例えるだけあって、人によってはこれが無限湧きするひともいれば、燃え尽きてしまって途中でガス欠する人もいる。
しかし大抵の人は、燃え尽きてしまってもまた別の何かに対して情熱を抱ける事が多く、全く補給できなくなるということは、まぁ健全な精神をお持ちの方ならほぼ発生しない。
逆に言えば、精神を病んでしまっている人は、情熱の補給ができなくなっている状態である。 もしくは、情熱の補給ができなくなってしまったから、精神を病んでしまったとも言える。
しかし、そういった精神を病んでしまった人の場合でも、後述する負の燃料についてはずっと湧き出てくる人もいる。

執念は死なせない力である

ポジティブな要素があるということは、もちろん反対の要素もあるわけで。
執念というものがおおよそそれに当たると思っている。
此処で言う執念たとえば「あいつに一矢報わないと死ねない」という復讐心だとか、あるいは「自分が死ぬことによって誰かに迷惑を掛ける」といった罪悪感だとか、そういった、控えめに言ってもプラスの作用の仕方ではない感情を、僕は総じて執念と呼んでいる。
このタイプの感情は決して「生きたい」と思わせるものではなく、あくまで「死ねない」と思わせていることがポイントである。
つまり、このタイプの感情で命をつないでる人間は、既に精神を病んでしまっていることが少なからずある。
この手の感情で生き続けている人は、「死にたい・死んだほうがマシ」という感情と、 「死ねない・死んではいけない」という感情が同居しているため、他人が想像するよりも大きな苦しみを本人は背負っているなんてことが割と多くある。
というか、ほとんどの人がそうなんじゃないかと思っている。
前述した情熱をなくしてしまった人は、この境地に至ることがほとんどで、この感情すらも得られなくなってしまった人は、人としてある意味次のステップに進んでしまうのだ。

両方とも失くしてしまった人の末路

死ゾ。

いやまぁ割と冗談とかじゃないです。
だいたい自殺してしまう人っていうのは上2つを完全に消失してしまった人だと思っている。
というか、後者の感情をなくしてしまうところまで行き着いた人は、割と本当に手遅れ感があるので、そうなってしまう前に、前者のポジティブな燃料が切れてしまった段階で早めに病院なりカウンセリングなり何なりに行くことをおすすめする。

まとめ

結局の所、何かに対しての情熱は常に持ち続けましょうということ。
一つのことに対して一生情熱を注ぎ続けられる人もいれば、
何かのタイミングで今まで情熱を注いできた対象に、急に燃え尽きたように何も感じなくなる人もいるので、前者の場合はそのままがんばってくださいとなるし、 後者のような場合の人は、何かしら新しい情熱の対象を見つけるか、もしくはなるべく長く情熱を燃やし続けられる方法を身につける必要があると思う。
要するにその人次第なので、自分にあった方法を見つけましょう。

そして、情熱が消えて執念に置き換わってしまった人は、なるべく早い段階でもう一度情熱を持てるようにしましょう。
これも正直方法は人それぞれで、病院にいって改善する人もいるし、ふとしたタイミングでまた情熱が自然と湧き上がる人もいるし、あるいはどん底にいた状況に手を差し伸べてくれた異性に恋をして復活、なんてこともある。
要は正解ってものがない。
ただ一つだけ言えることは、この負の原動力すらなくなってしまったら、その先にあるのは人としての死だけだ、ということである。

最後に1つだけ言える確実なことは、深夜のテンションで書いた謎の記事は冷静になったときに振り返ると死にたくなるだろう、ということである。